節分の鬼は何故豆ごときで退治されてしまうのか?

節分

節分では煎った豆で鬼を退治します。

何故豆なのでしょうか?

石や木の棒でもいいはずです。

 

実はそこには、日本人の優しい気持ちと深い善悪観が見え隠れしているのです。

節分の意味

節分という言葉は『季節を分ける』という意味を持ち、各季節の始まりの日(立春・立夏・立秋・立冬)の前日のことを指す言葉でした。

 

季節の分かれ目には邪気が生じると古くから言われていて、その邪気を滅して新しい季節を迎えることが大切とされてきました。

鬼

特に立春は新しい年の始まりとされていて、その前日、すなわち旧暦の大晦日には盛大に邪気を滅するための行事が執り行われました。

 

その行事が平安時代頃から追儺(ついな)という、鬼を邪気に見立てそれを追い立てて退治する儀式になったと言われています。

それが今に伝わる節分での豆まきの原型です。

 

ところがその追儺では、豆で鬼を退治したわけではないようです。

豆を使った鬼退治はまた別の話。

宇多天皇の時代に、鞍馬山の鬼が出て来て都を荒らしたため、祈祷をして鬼の穴を封じ、炒り豆で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたという故事伝説が始まりと言われています。

なぜ豆なのか?

なぜ鬼を退治するために豆が用いられたのでしょうか?

 

古くから穀物類には大地や自然の気が宿り、大いなる力を持つと言われています。

特に豆は『魔滅』に通じ、魔物には強いとされていました。

ですので豆が鬼に威力を発揮するのだと考えられてきたのです。

 

しかし私は鬼に豆を投げつけるという日本人の考え方には、もっと独特で深いものがあると感じています。

 

鬼に豆を投げつけるという行為は『魔滅』ではあるけれども、鬼が滅ぼすべき魔なのではなく、鬼から魔を追い出し、実は鬼自身を救済しようとする意識があるのではないかと思っているのです。

 

鬼とは何なのかという疑問に対してその答えには、実は諸説あるのですが、人が醜い思いと所業の果てに鬼になったとも言われています。

要は、人が鬼になったと感じているところが日本人にはあります。

少なくとも鬼を忌み嫌う敵、滅ぼすべき敵とは感じていないようです。

 

その発想が日本人の中にはあって、泣いた赤鬼みたいな物語が作られたりするのでしょう。

鬼に豆を投げつけるのは、その元にある人に対する切ない思いやりが本来含まれていたのではないかと思うのです。

泣いた赤鬼に見る日本人の善悪観

泣いた赤鬼

『泣いた赤鬼』という童話があります。

とある山の中に、一人の赤鬼が住んでいた。赤鬼はずっと人間と仲良くなりたいと思っていた。そこで、「心のやさしい鬼のうちです。どなたでもおいでください。おいしいお菓子がございます。お茶も沸かしてございます」という立て札を書き、家の前に立てておいた。

しかし、人間たちは疑い、誰一人として赤鬼の家に遊びに来ることはなかった。赤鬼は非常に悲しみ、信用してもらえないことを悔しがり、終いには腹を立て、せっかく立てた立て札を引き抜いてしまった。

一人悲しみに暮れていた頃、友達の青鬼が赤鬼の元を訪れる。赤鬼の話を聞いた青鬼はあることを考えた。それは、「青鬼が人間の村へ出かけて大暴れをする。そこへ赤鬼が出てきて、青鬼をこらしめる。そうすれば人間たちにも赤鬼がやさしい鬼だということがわかるだろう」という策であった。これでは青鬼に申し訳ないと思う赤鬼だったが、青鬼は強引に赤鬼を連れ、人間達が住む村へと向かうのだった。

そしてついに作戦は実行された。青鬼が村の子供達を襲い、赤鬼が懸命に防ぎ助ける。作戦は成功し、おかげで赤鬼は人間と仲良くなり、村人達は赤鬼の家に遊びに来るようになった。人間の友達が出来た赤鬼は毎日毎日遊び続け、充実した毎日を送る。

だが、赤鬼には一つ気になることがあった。それは、親友である青鬼があれから一度も遊びに来ないことであった。今村人と仲良く暮らせているのは青鬼のおかげであるので、赤鬼は近況報告もかねて青鬼の家を訪ねることにした。しかし、青鬼の家の戸は固く締まっており、戸の脇に貼り紙が貼ってあった。

それは「赤鬼くん、人間たちと仲良くして、楽しく暮らしてください。もし、ぼくが、このまま君と付き合っていると、君も悪い鬼だと思われるかもしれません。それで、ぼくは、旅に出るけれども、いつまでも君を忘れません。さようなら、体を大事にしてください。ぼくはどこまでも君の友達です」という青鬼からの置手紙であった。

赤鬼は黙ってそれを2度も3度も読み上げ、涙を流した。

(出典:ウィキペディア『泣いた赤鬼』あらすじ)

はじめ村人たちは鬼は悪いもの、怖いものと見ていました。

しかし赤鬼、青鬼の芝居で、青鬼は悪い鬼、赤鬼は良い鬼と村人たちの善悪の判断が変化しました。

 

さらには赤鬼にとって青鬼は良き友達という設定になっていて、非常に複雑で、ある意味では善悪は相対的なものに過ぎないのだということをこの物語は示しているのです。

 

結局のところ、この童話が言わんとしていることは、人はどうしても相対的に善悪を判断してしまうため、時と場合、関係で人にとっての善悪は変化してしまう。

煎じ詰めれば、善悪の判断など無意味なのだと言っているのではないでしょう。

日本人が節分の鬼に見るもの

節分に多くの日本人が豆をぶつけますが、それは鬼という実態ではありません。(お父さんが鬼のお面をかぶっているかもしれませんが)

鬼を殺してしまおう、討ち滅ぼそうという意識は日本人の本心にはないのだと思います。

むしろそこにあるのは、暗闇に鬼を感じる自分の考え/心を打ち捨てたいという願いなのではないかと私は思っています。

 

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